字がきたなくていいか?

最近、塾に入ったばかりの受験生の学校のテストを見る機会があった。国公立の一流大学に沢山の生徒を送り込んでいる高校のである。ぼくが驚いたのは、とても読めたものではないほど汚いその生徒の数字と文字である。それにもかかわらず採点の先生は、答案を丹念に読み、部分点を与えたり、コメントをしたりしている。自分にはとてもできない我慢だと感心してしまった。
でもなぜ?という気持ちが湧いてきたのは、字が汚いということでさえ減点できない学校の「テストというシステム」である。
ぼくは塾を始めてからそろそろ40年が経つ。だからという訳でもないが。生徒に平気で「バカだな」とか言う。「字が汚くて読めない」も「もっときれいに書け」は序の口である。解答の正否だけでなく、その過程にもやかましい。そういう自分から見ると、学校の先生の我慢は悲しいと思うと同時に、なぜ数学でも読めない文面に怒らないのか不思議な気持ちがする。数学が考え方や式や計算で成り立っていることは十分分かる。しかし文字が社会に流通しなければならない公共財であるからには、それは当然読めなくてはならないし、美しさには別の意味があると考える。
問題の生徒の答案を通読して、彼は確率と図形問題が不得意だと言うことが分かった。数学では、考えがまとまったから書くという場合も多いが、書きながら考えをまとめる、新しい発見をする。計算の結果からもう一度その由来を見直す。そういう内省的な勉強にこの生徒はまだ気づいていないようであった。教師はこういう生徒を導けるだろうか。