推薦入試の実体

2014年12月4日の朝日新聞「私 の視点」に推薦入試に対する批判を投稿し掲載されました。(注1)この投稿記事は当時教育再生会議が「大学入試を人物本位に」という提言をだしたことに触 発されて書いたものです。「人物」と「学力」の関係については、それはそれでいろいろ考えるところがあったのですが、投稿の原稿では字数制限があり、まっ たく検討できませんでした。別項でとりあげるつもりです。
さてその推薦入試ですが、一部のめぐまれた大学、つまり推薦入試においてもある程度「思うような人物」を選択できる大学をのぞいて、いわゆるマーチを含め その他の大学においては、その選抜の実体は当初のお題目とは大幅に違ってきてしまっています。しかしあいもかわらずメディアの論調は実体に踏み込んでいま せん。建前と美辞麗句のうえをなぞり続け、あるとき気がついたらとんでもないところに至っていた、ということにならないでほしい。その一念で書いています。
推薦入試、AO入試というものはその当初の理想では「受験の型にはまったおもしろみのない偏差値上の秀才」ではなく「学業成績にかならずしもとらわれず、 入学後の伸びしろに期待して、エッジの効いた本当の意味での創造力ある優秀な人材」を選び取ろうというものでした。つい最近小保方晴子さんのSTAP細胞のニュースが飛び込んできました。彼女は早稲田大学のAO入試の合格者です。これは最大の成功例でしょう。現在国立大学で全体の15%、私立では半数以上がなんらかの推薦枠で合格しています。このうちの相当数はしかし「小保方さん」ではまったくないのです。

他が書きませんからあえて書かせてもらいます。
A君。C大理工学部推薦合格。県立高校出身。early stage of life を「命の早い台」と訳すような子でした。揚げ足取りではありません。ことほどさよ うに、ということです。指定校推薦なので面接のみ。面接官はあきれて「勉強してないな」と苦々しく言ったそうですが、大学側も指定校推薦では断れません。 その後どのような大学生活を送ったのか、ときどき考えてしまいます。
B君。R大学理工学部建築学科合格。私立X学園出身。陸上競技のある種目で大活躍し学校に貢献していました。勉強はそもそもする暇もないようでした。朝練。勝ち進むので年中「大会の前です」といって塾も欠席ばかり。内申点がオール5と 聞いたときにはさすがに私の顔もひきつりました。大学が決まってから「これでは入学してからなんぼなんでも困るのでは」と親御さんも心配され集中して塾に かよってくれましたが。中学レベルのことからこの子が入学した大学が復習してくれている、といいのですが。でないとどこかで大事件、大事故がおこるかも、 とつい悪い想像をしてしまいます。
C子さん。某大数学科合格。私立大付属校出身。一応理系というだけで本人はまったく数学が好きでも得意でもなく、ただこの「推薦枠」が不人気で「空いていたため応募」し合格。
D子さん。某女子医大合格。Q学園出身。「え!?この子が医者になるのはいくらなんでもまずい。」と思ったので覚えています。
E君。P大理工学部。リベラルな私立高校出身。学力は低い。本人の親もそのことはよく承知していて「マーチにいけるとしたら推薦しかない」と中間期末は詰め込み猛勉強。上に大学が付いていてあまり他大志向でないこの学園ではそれで5が取れる。ラッキーでした。

こういったことは実は皆さんご存じのはず。受かった本人。その親。低学力のこどもに内申点をふるまう高校。不出来な子どもたちを定員確保のためにひきうけ る大学。なにも定員割れにおびえる三流大学でなくてもわたしたちが中堅と認識している有名大学や医療系大学でもこのありさまです。
こうして推薦枠は「低学力人間の培養土」と化しているのにそのことをズバリと指摘するメディアは不思議とありませんでした。わたしの投稿が載るとしかし同 じマンションの年配のご婦人から「ほんとうにそうですわね」と声をかけられました。受験に関係ない一市民だって知ってはいるのです。

この推薦枠があるかぎり子どもは「楽な方便」に惹かれてしまいます。あらかじめ出るところがわかっている勉強は勉強ではありません。推薦入試制度はおおか たの場合子どもの健全な学習動機をうばっているといったほうが早い。予想がつく問題の解答、解法を一夜漬けして臨むことが可能な定期テストにもとずく内申 点などどれほどの価値があるのでしょう。
政府だって現にいつも叫んでいるではないですか。教育界はグローバル人材を作り出せと。そのグローバル人材とは「予想もされない危機に対処する柔軟な能力 のある人材」のことではないのですか。だったらその正反対の成果を生んでいる、「馬鹿の温床」たる推薦制度は再考されるべきでしょう

(注 1)教育再生会議が「大学入試を人物本位に」という提言を出した。「一発勝負の入試の点数だけで一生を左右する入試選抜を行っていいのか」という問いに対 する答えは、すでに多様な推薦入試というかたちで実行されている。そのことの検証なしでさらなる手に打って出ていいものだろうか。事の本質は一発勝負の入 試の点と平素の学習状況の報告である学校推薦書のどちらが真に「人物を正確に見ているか」にある。実はそのことの敗北はすでに見えているのである。ただ誰 も口をつぐんで報告しないだけだ。わたしは塾教師として端的に低学力の人物が早々と合格を決めていくのを見てきた。これは長い目で見れば国を滅ぼしかねな い事態でありながら「当事者たちが当面は損しないこと」によって看過されてきたのだ。具体的にいおう。合格者本人に利があるのはいうまでもない。学校も内 申点をふるまうだけで合格実績を確保できる。少子化におびえる一部の大学にとっても早い時期に入学者を特定できるという利点がある。塾や予備校はどんなに 学力の足らないものが合格しているかを知ってはいるが告発する権限がない。苦笑いとともに「ラッキーだったね」とお祝いしてやるのである。「一回だけの試 験でなにがわかるか」「長期的総合的に人物を判断するほうがいい」と言葉だけは美しい。しかし「平素の活動」が「推薦をとるためにやり手のない生徒会活動 をする」ことだったりする。定期試験でしこしこ点数をかせぐせいぜいまじめなだけが取り柄の生徒に大学入学後の「のびのびした創造性」など期待できるのだ ろうか。スポーツ大会で活躍すれば体育以外の科目でも5を プレゼントしてもらえるという例も知っている。要するに推薦入試制度でわたしたちが手に入れたのは「のびのびとした創造性ある学生」ではなく「内申点や日 頃の行動に気を配るセコイ学生」であった。このようなことは大学側が正直に「推薦入試で素晴らしい生徒はかならずしも選抜できていない」と報告すれば転換 できるのである。「一般受験で受かるような学力のある生徒には推薦枠は使わせない」というのはすでに高校側の公然の秘密だ。「一発の入試の点数が反映する もの」と「このような高校の手にゆだねられた内申点」のどちらが信用するに足るものか。一発勝負へのアンチテーゼとして広まってきた推薦入試制度はかくも 退廃しているのだ。さらに普通の入試にまで「人物本位」を拡大するなどもってのほかである。方法もない。とりあえず「公平かつ客観的な入試の点数」で入学 させ、そのあと「ものになる」かどうかは大学教育の中で淘汰すればよいのである。その淘汰の機能がまったく我が国の大学教育には備わっていないことこそ問 題なのである。(2014年12月4日朝日新聞「私の視点」の元原稿。紙上では筆者の了解のもとに編集部によって数カ所の訂正がなされています)