そして、スーパーなこどもは生まれたか

文科省が海外でも活躍できる「グローバル人材」を育てるため先進的な高校を「スーパーグローバルハイスクール」に指定、支援するという記事が新聞に載りました。スーパーイングリッシュランゲージハイスクール、スーパーサイエンスハイスクールに続くスーパー第三弾です。世の中の「教育はこれではいかん」という要請に政治は応えなければならない。どうせ予算を使うなら「はなばなしい名前」をつけたほうが、いかにも「やってます」感がでる。そこで「スーパー」というわけでしょう。しかしこの連呼、なにか「嘘くさく」はないでしょうか。スーパーイングリッシュランゲージハイスクール(セルハイ)の成果について検討がいまだなされていないことはすでに指摘されています。ところで確か今年度から高校の英語の授業は「英語で」行われることになったのではなかったでしょうか。私は塾の教師ですから「みんな、どうなの。なにか変わった?」と聞くと、反応はきまって「先生、それなんの話ですか」。ひょっとして現場は(予想されたことですが)いっこうにかわっていないのではないでしょうか。いや今回にとどまらず教育行政というのはなぜか評価をすり抜け、そのすり抜けがえんえんと許されてしまう。確かに「橋を何本かけました」とか「寿命が0.3年伸びています」とかいう数値に教育は表しにくい。いや「数値を出せ」ということになると教育行政者は「トーイック何点、トッフル何点」しか思い浮かばないので、そここそがむしろ問題かもしれません。点数は「わかりやすい安心」ではありましょうが、「その程度」では本当は「グローバル人材」でもなんでもないのではないでしょうか。
そもそも教育とはそれが英語であれ数学であれ、丸太のような素材(こども)から教師が作品(教育によって向上させられたこども)を「削り出す」ことです。ある木材に刃をあてていく。この手ごたえなら今はこのくらいの角度。ここまで削れたからここからはノミをかえて。そういう子ども個人の身体性と教師の技術がもつ身体性の「出会い」が教育です。先進的な研究のために高額な実験装置がいる。そういう際に「予算を重点的につける」ことは理にかなっています。しかし「木を削る」際に予算やかけ声はいらない。だまってしずかに見守っていてほしい。それが現場の「まっとうな」つぶやきであるはずです。今こどもたちが「たいへんなことになっている」(もちろん低学力ということ、さらに本当の学力が何たるかをそもそも教えられていないこと)は小中高大すべての現場の教師ならば承知しています。そこへ上から「これでどうだ」とばかり「スーパー」が降ってくる。とりあえず「名前と予算」をもらっておくのも悪くないと考えるのは学校運営者の立場です。グローバル人材、国際感覚、先端科学技術。そういうものに民衆は「よろめく」し政治はそれに乗じる。なぜならそれをとりあげ、予算をつければ「ウケる」から。しかし教育の現場はもし良心的であろうとすれば、そうむやみには変われないはずなのです。
私はいわゆる「国際コース」の生徒たちで「国際感覚」にあふれ「英語をスラスラあやつる」子どもに出会ったことがありません。むしろ基礎学力(とりもなおさず本質的な学力)をつけるべき地道な労を体よく学校側から回避されてしまった「悲しき学生群」にそこで出会うのです。「使える英語」より前にまず「何にでも使えるいい頭」を。そこに「スーパーという冠」は果たして必要なのでしょうか。