「高校の英語の授業は英語で」に思う

「高校の英語の授業は英語で」がスタートした。英語教育界はここ数十年一貫して「もっと使える英語を」「英語で自己発信を」という圧力のもとに突き動かされてきた。少なからぬ現場の教育関係者(それにはネイティブ英語の使い手も含まれる)の反論にもかかわらず、である。その圧力とはグローバル技術革新の時代にあって「英語を自在に使い、世界に活躍するエリートたち」を日本は輩出せねばならぬという政財界からの要請である。
しかし私が懸念するのはこのこと自体の是非では、さしあたってない。朝日の記事にもあるように「現場はそんなことできるかどうか半信半疑」である。文科省自らも「日本語でもやむをえない」と語っている。「やむをえない」どころではない。実際「できない、やらない、やる気もない」ことがおおいに予想される。なぜならこれは「以前にもあった」以下の構図と同じだからだ。
昭和53年に「文法」が英語の教育課程から消滅した。しかし結局現場は行政側の指示に従わなかった。OCつまりオーラルコミュニケーションの授業枠をつかって現実には「文法演習」をおこなってきたのである。オーラルのはずが文法。これは「女湯」ののれんを押してはいったら「男湯」だったに等しい。そして一番問題なのは、そういった建前と実態の「乖離」によりオーラルコミュニケーションのまともな「方法論と実践」が育たず、また従来の文法訳読も「矮小化」してしまったという「あぶあちとらず」である。学生の「オーラル力」は以前よりむしろ下がっている。まさかと思うであろうが本当だ。ALTについて「どうなの」と聞くと、子どもたちは一様に「妙な薄笑い」を浮かべる。彼らの感想はせいぜいが「ビミョーです」。こんな「微妙な」ALTに予算を割く必要があるかどうか、検討の時期だろう。また多くの教材にCDが付いたために「コーラスリーディング」がおこなわれなくなった。しかし自宅でまじめにCDをかけて反復練習をしている子どもなど例外である。だからいまの子どもたちは、当時たいして上等でもなかったであろう英語教師の発音の、「後について読めた程度」にも英語を発音できないのである。まして「英語で自己発信」など、元来「日本語で」さえ気が進まない子どもたちにとても無理な話ではないか。一方正規の教科書ではなく「副読本」となった文法の教材は、かつての正統な格調を失った。今の文法副読本の例文のなんと「くだらない」ことか。説明のなんと「簡便」なことか。「進学校」ほど原理的説明をとばして演習を急ぐ傾向があるために、文法は「なんだかわからないが覚える」というなさけない「暗記物」になりはてているのである。
英文法の追放、ALT,小学校から英語、高校の授業は英語、数々の手を打ってきた。そのひとつでも英語力の向上に本当に寄与したか。「予算をつける」「教科書検定でしばる」ということで「何かをしたことにしている」行政側の「建前」のまえに「真実」はいつも置き去りにされているのである。まずは現状の把握を、そして「財界の犬」でなくなるだけの見識を、そして「真の自己発信とは何か」の再検討を、英語教育行政側に望みたい。