ツイッター的言語、あるいは書き言葉と「反省」

「 書き言葉は『反省』できるとろに意味がある」
 
 この春からNHKでニュースWEB24という番組がはじまりました。
 この番組では番組のテーマソングがながれるやいなや画面の下にテロップで刻々と視聴者からのツイッター投稿が流れてゆきます。そのことはこの番組の趣旨であり売りでもある。ちかごろこの番組にかぎらずこういった「ツイッター的言語」におもねるというか、あまやかすというか、なにか非常な価値を置く「大河のような圧力」を感じます。

 話はかわります。
 子どものたちの訳しまちがいというものはつねにある典型を示します。
 その典型のひとつですが、

  When I entered the room, he stood there.

これを「わたしが部屋にはいったとき、彼がそこに立った。」と訳す。

また、同じことですが
     When I entered the room, he was seated there.

を、「わたしが部屋にはいったっとき、彼はそこに座った。」と訳す。

  「彼がそこに立った。」といえば「それまですわっていた彼が、わたしが部屋に入っていくと、そのとき、はじめて、立ち上がった」 ことになる。だから正しい訳文は「かれがそこに立った」ではなく「立っていた」だ。
 彼は「そこに座った」といえば「それまで立っていた彼が、わたしが部屋にはいっていくと、その瞬間、腰をかけたということになる。」だから正しい訳は「座っていた」である。

 そんなことを毎日、毎日、くどくど注意していました。そのうち気づいたのですがこのことを「座る」という「動作」と「座っている」という「状態」の区別といったところで、出来ない子はいつまでも出来ないままだということでした。そのときは「ふうん」という顔をしても、またしばらくすると同じようなまちがいを繰り返します。どの文法書にも動詞には「状態動詞」と「動作動詞」があると書いてある。書いてはあるが、しかし「そんなこと、どうでもいいし、、、」という生徒の側の「こころの事情」があり、そこをむしろ汲まねばならないのではないだろうかと思いました。
 
 今日もある生徒(高校三年生)は

 This is where President Kennedy is buried.
 
に対して、こういう訳をしました。
 「ここはケネディ大統領が埋葬される場所です」
 「すると、ケネディ大統領はまだ埋葬されていなくて、これから埋葬される予定なのかしら」
 「、、、、、、、、、」無言。

 この生徒はつまり「埋葬される場所」と訳したときと「埋葬されている場所」と訳したときの、それぞれの「ことば」からいやでもたちあがってくる「ことがら」、そしてそのことがらの「差異」を「ふりかえって把握」していないのです。

 発するそばから空中に消え去っていく「しゃべりことば」とちがい「書かれたことば」は残って目に入り、なによりもまず「本人によって」検討されます。この「検討する」という「書き言葉」にかならずくっついているはずの作業によって、わたしたちは「この世」を分節し差異化していきます。ことばによって分節し差異化しないかぎりこの世はその精妙で複雑な姿をあらわしません。ところが生徒たちはまったくのところ、この「書き言葉によることがらの差異化」という経験も積んでいなければ、おそろしいことですが「その必要」すら感じていないようなのです。自分が「埋葬される場所」と書いて何を表出してしまったか。「埋葬されている場所」とかわると「そこで表していること、表してしまっていること」がどう変化するか。「あなたが書いて、それによってあらわしていることを、よく自分の訳文を見直して考えなさい」というと、「えっ?」という顔をします。あるいはひどい場合はそんなことを要求するわたしを「うざい」と思っています。
 (そんな生徒たちに「現国の授業」として大学入試問題に出題された「難解な」ポストモダン評論を読ませている(解かせている)学校もありますが、それは大根の皮もむけないのに高級割烹料理を教えているようなものでしょう。)

 ことばを発する。それを他人が受け止める。これは日常、話し言葉のなかでもふつうにおこっていることです。「そこの、お醤油とって」「はいよ」と。これはこれでコミュニケーションの一形態ではあります。
 しかし書き言葉でしかおこらないことは、繰り返しますが「ことばを発する、それをまず『自分自身が』検討してしまう(はずである)こと」です。
 しかしネット上の多くのことば、ツイッター界のことばは「言いっぱなしのことば」です。反省も検討もない。「お醤油とって」ならいいのです。それでも。しかしツイッター言語は、それでいて空中には消えていかない。目に見える形でテレビ電波やネット上を飛び交うのです。そしてそれこそが、ある種の人々がツイッター投稿に熱中し、その熱中をなにか意義あることのように番組制作者たちが理解しているものです。
 思えば確かに「沢、きたあああああ」というようなフレーズが「活字」になって「電波をかけめぐる」ことには経験したことの無いような「快感」があるにちがいありません。いまだかつてこのような私的な叫び、嘆息、思いつき、あるいは、それこそ「つぶやき」が「おおやけになる」ことはありませんでした。しかしいまや、かつては空気中に消え去っていたにすぎない「自分のことば」が見える形で電波やネットを飛び交う。なにかそれは「つぶやきだって価値がある」と電波の上で承認されるようではありませんか。だからむやみに嬉しいのはわからぬでもありません。しかしこれにしびれているだけでいいのでしょうか。またこのことに無節操に価値を置いていいのでしょうか。
 
 (オスプレイ反対は五百人集まっただけで盛んに映像が流れる。それはそんな映像いくら流したって「おおきなうねり」にはならないからでしょう。報道はマスコミの儀式です。それに反し脱原発デモはなぜかろくに報道されない。おそらくそれは「おおきなきなうねり」に「ほんとうに」なりそうだから。そしてけっしてテレビでは流してもらえないにもかかわらず、ツイッターでの呼びかけが何十万もの人をデモへと動かす、そういったことのツイッターの功績をみとめないものではありません。)

 わたしたちの多くは高校生にもなって「埋葬する」と「埋葬されている」の区別をつけていないのです。この子が大学入学を許可されないならわたしは安心します。いや許可されたとしても大学がこんな言語能力の人間は卒業させないのなら安心するのです。しかしわたしたちの国はこんな人間を平気で許容する国です。この子はもうすぐ大学生となり成人し民主主義の世の中で「一票」を手にし恋愛し結婚をしこどもの親となっていく。
そして親となってこんどは子どもの尻をたたくのです。「あなたは『単語』がわからないから英語ができないのよ」と。ああ。