「は」と「が」の話

「は」と「が」を間違える
 

 子供達は、「は」と「が」の違いがわかっていないらしい、実によく間違える、したがってわたしは一日に何回となく直す。こういうことが常態となったのはいつからか、振り返ってもはっきりとはいえません。

 大野晋さんが、「は」と「が」の違いについて説明されたとき、私に限らず誰でもがびっくりし心から感心したのは、自分たちがどういう訳かわからないが、ある時は「が」を使い、あるときは「は」を使い、それがどちらでもいいわけではなく、なぜか、ここは「は」に決まっている、ここは「が」しかない、と考えているのだが、どうしてそうなのかは「うまくいえない」そこのところを、明快に言葉にして説明してくれたからでした。したがってそこには、「なぜかそうしてしまう自分」がまずあったわけで、そうできないひとがいる、という事態は思いもつかないことだったのではないでしょうか。
 
 ところが、現在、子供達の訳文において、「が」と「は」はしばしば滅茶苦茶に使われています。 
 たとえば、某教科書のある課の最初は次のように始まっています。
   
One night a spaceship landed on the earth.
Small aliens came out of the ship.
They have large eyes, strange necks and long fingers.

ある晩、ひとつの宇宙船「が」地球に着陸しました。
   ちいさな宇宙人達「が」その船から降りてきました。
   彼ら「は」大きな目と奇妙な首と長い指を持っていました。

 この時、合計三回の「は」と「が」が正確に使えていると、ほっとするくらい、子供達は実にしばしば間違えるのです。

 また、英語学習において、ごく頻繁に登場するIt~to~の構文を考えてみると、日本語に訳すとき、「は」となるか「が」となるかは、場合によります。 例えば

   It is important to get up early.

という文の場合、この文だけ独立して示されれば、現在形の一般論と解されますので、

   早起きすること「は」大切である

 と訳すのが妥当です。
 ところが

  To catch the first train, it was important to get up early.

となると、一般論ではなく、特定の事実を伝えるための文になり
 「始発に乗るためには早起きすることが、大切だった」と訳すことになります。
 こんなやさしい文でも、わたしたちは「は」にするべきか「が」が正しいか、瞬間瞬間に選択を迫られているわけです。
 大野さんの説明に倣っていえば、第一の文において、なぜ、「は」が選択されなければならないかといえば、それは、「早起きすること」は、もう既定のことがらであり、その一文がなぜ述べられねばならないか、という目的(すなわち未知の事項)は、その「早起き」がくだらないことか、大切なことか、あるいはやめておいた方がいいか、を言明することにあります。その「未知」にこそ、この文章がつづられねばならない意味があります。
 一方、第二文においては、「始発に乗るために大切なこと」が所与の事項で、そのためには「何をしなければならないか」という未知の事項を述べるために文章は存在します。
  
  マケイン氏は負けて、オバマ氏が次期大統領に選ばれた。
  マケイン氏は負けて、オバマ氏は次期大統領に選ばれた。
  マケイン氏が負けて、オバマ氏は次期大統領に選ばれた。
  マケイン氏が負けて、オバマ氏が次期大統領に選ばれた
 
 この四つの文は、文法的にはどれも間違っていないわけですが、2008年11月の大統領選直後のホットは状況からすれば、当然、第一文が正しくなります。あのオバマとデットヒートを演じていたマケインはどうなったかというと「負け」、誰が大統領になったかというとオバマがなったわけですから。
 また、第三文は、ずいぶん後になってから、この選挙を振り返ると書かれる文章です。
つまり、この文章が背景とする状況が要請する「声」が変わってくるわけです。選挙後、一時がたってみれば「負け」はもう歴史上の一こまであり、「あのときは誰が負けたか」というと「マケインが負け」一方、相手のオバマはどうなったかというと「大統領になった」わけです。
 子供達の文で圧倒的に多いのは、第二文のように、平板にすべてが「は」で進行していくというものです。要するに、何も考えていない。

「主語だから「は」だろう」

ということです。こういった文を読まされるとき、その「は」の連続によるパワーにより、ふつうの人間なら気持ちが悪くなってしまいますよね。
 
 また、非常に多い間違いとして、also,や、tooがでてきたとき、その「効き」をまったく考えていないというのもあります。
    Tom likes tennis.(トムはテニスが好きだ)
   Tom likes baseball, too.(トムは野球も好きだ)
  第二文の訳が、「トムも野球が好きだ」になるかと思えば、
    Tom likes tennis.(トムはテニスが好きだ)
    Tom’s brother likes tennis, too.(トムの兄弟もテニスが好きだ)
  の、第二文が「トムの兄弟はテニスも好きだ」となっていても、まるで平気です。
 
 これは、子供達が文脈の要請する「声」に耳を傾けなくなった、傾けられなくなった結果としか、考えられません。文章の進行にしたがって、刻々と脳裏に立ち上がってくる様々な選択肢のなかから、わたしたちは選び、選び、またさらに選んで文章をつづっていきます。英語を日本語に訳す場合でも、そのことにかわりはありません。ところが、「は」と「が」を間違える彼らは、文脈の要請などはどうでもよく、まるで機械のように「は」で、押し切っていきます。
  これは、もちろん「国語教育」の問題に違いありません。「は」と「が」に限らず、助詞の素養は、かつては、意識して身につけられるべきものでした。
  朝礼の時、たとえば校長先生はこういう問題を全校生徒たちに出します。

    米洗う前を蛍がふたつみつ
  
  この、「を」を「に」に変えたら、どのように情景がかわるでしょうか、と。一週間考えさせて、次の週にまた、校長先生は答えを聞くのです。
 「池のまわりにバラが咲く」と「池のまわりでバラが咲く」はどう違うか。
「学校へ行く」と「学校に行く」ではどう、感じがちがうか。すぐにすっきり答えられなくてもいい、助詞は「宿題である」助詞は「課題である」と意識されていた時代がかつてあり、今はそれが滅んでしまったのです。
 「文脈の無視、文脈への無関心」このことが「低学力の子供のみに起こっていること」ではないのが驚きです。

 ところで、2012年6月14日の朝日新聞につぎのような記事が載りました。

 タイトル「文と数式 脳の働き同じ」

 「日本語の文も算数の式も、構造を読み取るとき脳は同じメカニズムを使って情報を処理することを、日独の研究社が明らかにした。その結果『若い男が広い家をかった』といった短い文を理解しようとする場合、複数の文節からなる文の構造を組立てるときと、単語の意味を理解するときでは、脳内の異なる部分が活動していた。さらに(4×2)—(2=5)のようなかっこつきの計算問題を暗算してもらうと、文の構造を把握するときと同じ領域が活発に働いていた。」

 どんなに英語が出来ない子でも、またそんな子を持つ親御さんでも、「単語の意味」には執心します。素朴に思っている。「だって意味がわからないのにどうやって英文をわかるの」と。しかし意味を調べたその後にこそ、「きわめて顕著な能力差」があらわれます。
 さきに書いたように、too ひとつさえ 「文脈のなかにおいてみなければ」訳せない。文節と文節をジョイントし、文脈、文構造をつくりあげていくものは助詞、助動詞です。
 その「たいせつさ」を肝に銘じこどもたちに十分習熟させること、これは小学校で週一時間「英語ごっこ」することよりよほどたいせつではないでしょうか。