オーラルコミュニケーションの現場で本当に起こっていることは その1

 なにげなく、あっさりと使われ、当然視されている「いい方」にはしばしば嘘があります。たとえば日本人は「無味乾燥な文法」の「詰め込み」ばかりやらされてきたから「生きた英語」が身についていない、とか、いくら「読解」ばかりができても「道も聞けない、ランチの注文」もできない。だから「もっと使える英語を学ばせろ」とか。

 先日NHKテレビを見ていましたら、塩崎元官房長官が東日本大震災の復興状況を視察にきたハーバード大学の大学院生たちと会話している場面が映りました。
 塩崎氏は日本の政治家にはめずらしく「英会話」をされていました。ご自身もかつてハーバード大学院で政治学を学ばれたということで英会話が出来るのだと思います。それだからこそ、この役目がまわってきたのかもしれません。しかし、大学院生たちは微妙に「当惑」した顔をしていたのです。もしかするとある程度「流暢」にしゃべってはているが「内容がたいしたことないのではないか」とわたしは危惧しました。いえ、塩崎氏が「たいしたことしか考えていない」といいたいわけではないのです。英会話はできても所詮「たいしたことはいえない」それが、わたしたち外国人の英語力のせいぜいではないでしょうか。「震災の復興がなぜすすまないのか」というテーマです。そこを「政治はどうするか」という話です。カフェでの雑談ではない。ここは気取らないで通訳をつければいいのに、とわたしは思いました。
 楽天やユニクロが英語を会社の公用語にする。それは「業務連絡」のレベルの話ではないでしょうか。それはそれで必要でしょう。しかしそのことと「外国語を学ぶ」ことの本質とは別物ではないでしょうか。
 「生きた英語」「使える英語」を。「文法より英会話」を、「オーラルコミュニケーション」を。もっともらしく聞こえます。くりかえし使われるフレーズです。しかしこのことばの危うさは「英語が出来る専門家たち」によってこそしばしば指摘されてきたのです。
 その例をいくつかあげましょう。
 
 「英語教育はなぜ間違うのか」(ちくま新書)山田雄一郎著から引用します。
 
 「多くの人は英会話力を絶対視して、それこそが社会的な成功の鍵だと思いこんでいる。それは、言い換えるなら多くの人が自らの英会話力不足を劣等感に結びつけているということでもある。これは、誤った考え方である。英会話力などという特殊能力の有無を持って人を判断してはならない。第一、どんなに感が鋭い人の場合でも、英会話能力だけが身につくなどと言うことは起こらない。日本語であれ英語であれ、その会話力を支えるのは、生活の土台を形成している自分自身の経験である。日本語を通してのしっかりした基礎知識やものの見方が備わっていなければ、英語で表現すべき考えも生まれてこない。」

 もうひとつ挙げましょう。
 1960年代にNHKの英会話番組の講師をつとめ(わたしたちの世代にはなつかしい、あのよく田崎清忠先生の隣でトチっていた愛くるしいマーシャさん)、現在は聖心女子大学の教授(偉くなられたのですね。それにさすが聖心、文章が抑制されていて上品です)のマーシャクラッカワーさんの「日本人の英語力」(小学館新書)からです。

 「英文が書ければ英語は話せる」というタイトルの章です。

 「これまで、さまざまな英会話表現を紹介してきましたが、これらのフレーズをどんなシチュエーションで使うとしても、英語を上手に話すために必要な事は、基本的は文法を守ることです。英語が英語らしく聞こえるようにするには、きれいな発音や会話表現を上手に使うことよりも、文型がしっかりまもられていることのほうが、はるかに大切なのです。最近では、日本にいながら映画やケーブルテレビの海外メディア、インターネットなどを通じて英米のリアルな英語に直接アクセスできるようになり、また海外旅行やホームステイ、短期・長期の留学までもが比較的簡単にできるようなってきました。そのため、これまで日本の英語教育で行われてき、文法重視の「読み・書き」を中心とした学習よりも、とにかく何でもいいから英語を「話す・聞く」という学び型を重視している人が増えてきたように感じます。もちろん、正しい英語を耳で聞き、それをきちんとマネをして自分で話せるように身につけていくのは大切なことではあります。しかし、それが正しいかどうかも確認せずに、「周りでこう言っているから」と耳で覚えた英語をというのは、往々にしてStreet English (街角英語)に偏りがちなのです。最近では、ネットで外国人とやりとりするをする機会も増えたため、Interneteseな英語(ネット英語)の影響も多々見られます。こういった英語は、学校などで親しい友人や仲間と語らには、まったく問題ないかもしれませんが、ビジネスの場や公のパーティーなどで自分の意見を求められるような立場になったときに使うと、まったく相手にされなくなってしまいます」

 結局、さまざまな混乱は「英会話をぺらぺらやる」ことと「英語を真に学ぶ」ことの混同からきていると思われます。それをいっしょくたにして「日本人は英語が出来ない」となっている。それを混同したまま英語教育行政はうろたえつつ「財界からの要請」があるのかないのか知りませんが、「オーラルコミュニケーション路線」を突き進んできました。
 「外人英語講師の採用」「小学校から英語」「高校の授業は英語だけで」ともう流れはとまりません。日本の英語教育から1978年に「英文法」は消えました。もう三十年以上にもなります。その結果、文法はわからなくてもすくなくとも「会話は出来る」とか「発音はいい」そんな生徒が出現したのでしょうか。それならまだしもなのですが、そんな子はひとりもいません。

 なぜか。いくら行政が外人講師のための予算をつけようと教科書会社にオーラルコミュニケーションの教科書を作らせようと、現場はいうことを聞かない、いや聞けないからです。

 その理由はつぎの章でのべます。