「ゆとり」か「つめこみ」か、に思う

「つめこみ教育」なんてそもそもできない、ありえない

  世の中には、ある時期だけ、検証ぬきで使ってかまわないと前提され、そのとおり検証抜きでやたらにつかわれるフレーズというものがあります。
 この「つめこみ教育」という言葉もそうではないでしょうか。

 ちかごろでは、「反ゆとり」が完全勝利ですから、以前ほどではなくなったとはいえ、「つめこみ」「つめこみによってこどもに課せられる不当な緊張」「落ちこぼれではなく、行政のミスによる落ちこぼし」というような文言はひところは、無条件で使いまくられていたのです。たとえば、学校で事件が起こる。すると新聞はきまって書くのです。「進学校」だったとか、なかったとか。まるで、進学校が持っている(に決まっている)抑圧がその事件をもたらしたかのように。
 
 長いこと、このことにわたしは違和感をもってきました。
 この章では、「つめこみ教育」について考えてみます。

 さて、私が持ってきた違和感を一言で言えば、「つめこみ、つめこみっていうけど、いままでつめこめた教師って本当にいるの、つめこまれた生徒は本当にいるの?」です。

 かつて塾ブームに火がついたころ(1970年代半ば)テレビで放映される年末光景のひとつには、かならず、「必勝」と書いた日の丸のはちまきを塾の先生と生徒がしめて、「えいえいおう」とお正月特訓にむかうというのがありました。ずいぶん戯画化された光景ではありましたが、まあ、やらせなどではなく、本当にそういう人々もいたことはいたのでしょう。
 そのころ、報道が依拠していた大衆の無意識とは、「むかしは子供はもっとのんびりいていて、お正月はコマをまわしてたこをあげていたもんだ。(あの、寅さんのラストシーンのように)今の子は、暮れも正月も、勉強、勉強か。なんだかたいへんだな」です。
 すると、どこかの識者がおごそかにこうコメントします。「わたしたちがしてきた本当の勉強はこんなものじゃない。予備校や塾が教えているのは、小手先の受験技術、そのつめこみで、それは、勉強の王道からはずれているゆゆしきものだ、だから日本人は独創性に欠け、ろくな成果もあげられないのだ」
 そしておおかたの学齢期の子供を持つ親はこう思うことにしていたようです。「なんだかんだいっても、塾に行かなきゃ受からないなら「つめこみ」もしょうがない、塾は必要悪だ」

 しかし、わたしは思ったものです。「つめこんでつめこめるものなら、こっちは苦労しません。そんなにスイスイできるのなら私の前でやってみせてほしいものだ」と。

 およそ、いかなる技能も職能も、その人の能力や努力を越えて、目標にはやいこと到達させてやるような効率的な抜け道って、そうあるものでしょうか。ひとり、ひとりが胸に手をあててみればそんなことはないのは明らかなはずです。勉強だっておなじです。
 でもわたしは、抜け道などないのだから、みんな、こつこつ努力したのだといいたいわけではありません。ちがいます。

 あるひとは、はじめて包丁をにぎらされて、十年前から包丁をにぎっていたかのようにすうっと、魚が切れるのです。また、あるひとは、親方のやり様をじっとみていて、包丁を持たされた翌日にもう切れるでしょう。一週間後のひともいるでしょう。あんまり長いことできないので、親方に叱られて板場でしくしく泣いていると、優しい先輩が、うまくコツを教えてくれて、急に出来た、ということもあるかもしれない。一年やってもだめで首になるひともなかにはいるに違いありません。
 わたしは、これらのどこにも「つめこみ」などない、ありえない、といいたいのです。

 分数の意味がわからない子供にわからせる、わかる子はわかっているのですが、わからない子はさっぱりわからない、(後で述べますが、こどもの能力差はすごい)
 その時「つめこみ」云々ではなく、「わからんちん」に「わからせる」方法を、わたしたちは考えられるかどうか、なのです。それは簡単なことではありません。
が、果たして、どこの誰がそれをやってきたか。

 わたしは、塾の教師はおのおの、ある程度は、合理的にも、科学的にも、経験的にもやったはずだと思います。だって、出来るようにしなければ、塾はつぶれるから。
 塾の(補習塾の)役目は、板場で泣いているかわいそうな不器用ものを救ってやる先輩です。でも、コツがコツとして相手にキャッチされればまだいいほう、コツだって、そうそう伝わるものではないのです。まして、「つめこもう」などど、仮にも考えた日には、「出来なくって泣いてしまう」のはわたしたちの方です。
 
 いわゆる進学校のトップレベルにいる子は、進学塾にかよって詰め込まれたから、勉強ができているわけではありません。ほとんどは、しかるべき素質の持ち主だから「勉強などさっさとできる」のです。もう、あの子たちは、「要領よく受験技術を身につけたずるい子」というアプローチはやめたほうがいい。
 「出来る子の素質」に対する、認識も甘ければ、「出来ない子の出来なさ」に対する認識も甘い。それが日本の行政とマスコミです。あるいはわかっていても「差別」というクレームをおそれて本心がいえないのかもしれません。
 そこにどれだけ、この「つめこみ」というフレーズが加担したことでしょうか。

 2012年3月28日の朝日新聞の朝刊の一面のタイトルは次のようなものでした。
 「高校教科書 ページ一割増」「13年度から脱ゆとり、仕上げ」
 そして「ゆとり教育」を説明するキーワード解説枠にはこうあります。
 (ゆとり教育とは)「詰め込み教育が落ちこぼれを生んだとして、学習時間と内容を減らし、自ら学び考えることを重視した教育。1980年度実施の学習指導要領から削減が始まった。2002年度実施の学習指導要領が、学校完全5日制とともに教育内容を3割削減したことから、学力低下招くと批判を受けた。」

  「詰め込みからゆとりへ」そしてまた「ゆとりからまた詰め込みへ」。
はたしてブランコは右に行きすぎたものが左に戻っただけでしょうか。左へ行きすぎたものが右に戻っただけだったのでしょうか。

 そうではありません。そもそも幻想のキーワードであるところの「詰め込み」ではあったにせよ「詰め込みからゆとりへと舵をきった」と「称する」公教育に見切りをつけ、ある階層以上の大衆は「それでいいわけないでしょ」と私立校へむかいはじめます。都立学校群制度導入時と全く同じ構図です。
 「やっぱり公立では心配で。私立だったら英語はプログレスとか、なんですよね。単語の数も多いでしょうし、数学も高2までに高校の内容を終わらせて、あとは受験勉強にあててくれるということですし」
 そのとき私立校の一部はその「流れ」に答えるべく「塾化」したのです。

 塾の分際であえていわせていただけば学校の塾化ほど「われわれほんとうの塾」にとって迷惑なものはありません。「お株をうばわれる」からではありませんよ。念のため。そのおろかな思いつきの「後始末に追われる」からです。
 たとえば単語テスト。
 A君はわたしの古文の生徒です。中3ですがもう古典文法は中学生としてはしっかりできていました。
 この間の期末で点数をきくと72点。
 「変ねえ。何が出たの。」
 「単語の暗記が30出て覚えませんでした。あとはできたんですけど。」
 「ろくに文章も経験しないうちにまず単語を覚えろですか。そんなものできなくてよろしい。」
 しかし世の中には「せこい」お母様もいて「塾にいかせるのは学校の成績を上げてもらうため」点がとれないのは問答無用というかたもいます。
  
 生徒を集めたい新興私立校は「うちに来れば受験指導はばっちり。学費はかかるが塾へいかなくてすむから結局安くつく」という意味のことを宣伝します。
 その新興私立校の「落ちこぼれ」をたくさん面倒みているわたしは知っています。
その学校のやり方と生徒のできなさを。
 いや「少子化時代」に危機感をつのらせた私立校で受験体制強化をうたわないで済んでいるのは今では「黙っていてもいい子が入ってきてくれる御三家」以外ないのではないでしょうか。以前はのんびりリベラルといった校風で知られたところも「塾化」しなければ「実績を数字で示さなければ」子供がそもそも来てくれない。生徒があつまらなければ学校がなりたたない。
 かくてほとんどの私立校は皮相的な意味でですが「塾」と化しました。

 さあ、ここからがわたしの一番いいたかったことです。

 私立校が塾化して受験体制をとったからといって「勉強ができるようになるしくみ」に変化がおこることはありえない。
 さきほどいったように「詰め込もうとしても人間の頭は詰め込みなどもともとうけつけない」のです。
 定期テスト、実力テスト、校内模試、英検、到達度テストなどなど課題と試験範囲に追いまくられ、ほとんどこなせないこどもたちが出現しています。
 これは塾ではなく、なんといまや「学校」がおかしている間違いです。

 英検をやってくれる、単語テストをやってくれる、トレジャーやプログレスで授業をしてくれる、そんなことをどうかそれだけでありがたがらないでください。
 お子さんの頭脳をすこしでも「明るく」するのはそんなかんたんな作業ではありません。
 
 ではどうすればいいの。
 手前味噌になりますが「黒板方式」がひとつの答えです。