資格について

  資格について

 「こういうご時世だから、人間やっぱり資格だろう」という風潮は、お母様がたばかりでなく、いまや中学低学年にまでおよんでいます。「将来やりたいことは、何」というようなことは、めったに聞かないようにしていますが、なにかのはずみでそういう話になることがある。「正直、やりたいことってないんすよね」という答えなら、まだ、ほっとします。が、年端もいかない連中が、「薬科にいけって親が言ってます」とくると、「いやあな気持ち」がするのは、わたしに同情が足りないからでしょうか。

 その流れで、「英検好き」というジャンルがあって、「中三の二学期までに、英検準二級を」などの要望は、やたらと多い。「英検合格」というのは、目に見える成果なので、たしかにうたい文句としては便利で、実績がほしい新興の中位校ほど「目標」にかかげたりするので、これがまた困る。塾はそれに、とにかくついていかなければいけないからです。「学校が提示してきた価値」は、それが間違っていようがいまいが、満たさないと商売にならないのが塾の宿命です。

 英検にかぎらず、資格というものは「ないよりあったほうがいいときも場合によってはあり得る」という程度のものです。ところが、このことを知っているのは、皮肉なことに「資格を持っているひと」なのです。つまり、「資格、資格っていうけれど、実際持ってみると、資格だけじゃあ勝負にならないなあ、ほとんど」ということを実感できるのは、資格を持ってみてはじめて、なのですね。資格のないひとは、資格がないゆえ自分は損していると思い、資格さえあれば幸福がそこに自動的についてくると考える。資格に全的にあこがれる。盲目的に、資格をめざす。

 しかし、これほど「学び」から遠い姿勢もまたないのではないでしょうか。「これさえあれば幸福になれる」と考えること、それと、たとえばマニュアル本的なものを「これさえやれば受かる」と、盲目的におもうこと、おもえてしまう(くらいバカな)こと、はほとんど同じです。「英頻」を二巡、三巡したはずなのに、強調構文が見分けられない、〈~ing 〉が分詞か、分詞構文か、動名詞かあやしい、そういう人はけっこういます。そのように、一見した形からだけで判断つかないこと、それこそが本質的かつ基本的なことです。(これに対し、「◯◯の見分け方」などといった、いかにもマニュアル的な説明がなされることがありますが、そんなものに頼ろうとすると、実は、ますますバカになって、解けなくなる。)
 資格なんてなにほどのもの、という「孤独な自信」を勉強する、その機会がこのごろの子供にはありません。それは、「資格を持ち、その上でなおかつ、資格なんてそんなもの、と知っている親」にめぐまれるか、読書によって「孤独な自信家」に出会うほかない。そのどちらかに恵まれた子は、たっぷりとして、また、あっさりとしています。そんな子は、淡々と勉強してゆけるのです。それが何の役に立つかなどと問うことなしに。