「精読より多読」は正しいか

 「精読より多読」は正しいか

 英語の長文を読むとき、「いちいち立ち止まって辞書を引いていたのでは『読む醍醐味』が失われる。多少、わからない単語や、箇所があっても気にせずどんどん読み進むのがよい」ということを、言われたことはありませんか。
 
 わたしの高校では、高校一年の間に「多読用」として原書を6冊、課題として渡されました。一冊目は、ジョージオウエルの「アニマルファーム」、2冊目はサローヤンの「我が名はアラム」、あとはアガサクリスティーか何かでした。注釈付きでなく、正真正銘のペンギンブックスを渡されたときの嬉しさは、あのわら半紙で出来たペーパーバック特有の「香り」と「軽さ」とともにはっきりと思い出せます。もっとも、正式に仮定法も、分詞構文も習っていないうちに、読まされるわけですから、いくら辞書を引き引き、といってもわたしには限界がありました。後年、一応の能力をつけてから「高慢と偏見」を読みましたが、そこでは、英語固有の文構造こそが保証しているように感じられる、機知、皮肉、ユーモア、品位を味わう事が出来ました。小説ですから、受験英語ばかり日頃やっているわたしの知らない単語はあるものの、文の骨組み自体は、仮定法、分詞構文、倒置、強調、省略の連続であるともいえて、オースティンを読むことは、「学校英語の文法で習ったことがどんなに役立つか」を思い知る経験でもありました。しかし、そういった「愉悦」は、かつての高校一年間には、味わうべくもないものでした。「あの『多読時代』は無駄だったなあ」とあらためて思ったわけです。

 さて、困るのは「細かいところにとらわれずに、なんとなく分かるのが良い」ということを、「何となく信じている」場合が、それでもままあることです。
 よく、御父母のかたから電話をいただいて、「前回の実力テストで長文ができなかった。読むのが間に合わなかったと言っている。速く読めるようになるにはどうするべきか」というご質問をなさるかたがいます。ここから、「精読より多読、速読」へはまっすぐの道筋です。
 お母さんのなかには、昔自分がいわれた「いちいち細かいところにとらわれずに、大意を把握しろ」を思い出す方が少なからずいらっしゃるわけです。
 しかし、これは、非常にまちがった読み方であり、近道でも遠回りでもない、永遠に英語にたどり着けない方法であると、わたしは思います。

 これもよく、あることですが模試を受けてきた生徒に感想を聞くと、「なんとなく長文がわかった」といっている子は、全くだめ。逆に、「全然分かりませんでした」という子は、けっこうできている、というのがあります。これはもっと、一般化できることなのかもしれませんが、「なんとなくわかった」といういいかたを出来る子は、「ものごとをわかるということは、なんとなくレベル、でいい」と思っている子です。たとえば試験問題の長文の「ところどころに知っている単語があり、その一つががたとえば environment であったりすれば「環境問題」だったらしいと考え、そのことを「なんとなくわかった」と表現しているわけです。

 反対に「全然分からなかった」という感想をいう子は、「少しでも不明なところがあれば、気になって仕方がない」という気性の子、を意味するということです。
 「なんとなくレベル」の子に「なんとなく」をおすすめするほど、危険なことはありません。いや、そういう子でなくても誰にとっても、「速読への近道は精読以外にない」と、経験的に断言できます。

 わたしは、結婚後十年間は、子育てで忙しく、高校生クラスは講師をやとってやってもらっていました。 さて、しばらくして少し余裕ができ大学受験クラスも教えるようになり、なかには東大を受ける子も出てきました。
 そのとき東大なので、ものすごくむずかしい教材を使いましたが、はじめはわたし自身がうんうん頭をひねらなければ分からないほど、構文が入り組んでいる。ある時期から、東大の英語は、「実用化」され、ずいぶん平易になりましたが、その時は予備校が作った昔ながらの最高に「難しい」ものを使っていたのです。さて、そうやって一年間頭をひねった後のことです。次の年度は、個人塾にはよくあることなのですが打って変わって、学力の低い子ぞろいで、難しい問題を予習する必要はありませんでした。そこで、余裕が出来たわたしは英字新聞を読むことにしました。おどろきました。一年前とまったくスピードが違うのです。英語から日本語への変換処理の頭脳の速度が大きくアップしていました。新聞の英語と、予備校が作った最高難度の問題集の英語はかなり雰囲気の違うものです。ですが、判じモノのような古めかしい英語の「精読」は、標準英語の「速読」能力のアップにものすごく効き目がありました。もちろん、わからない単語はたまにあるのですが、あくまで単語レベルのことで、もともとすなおな新聞の構文は水をごくごく飲むがごとく読んでいくことができます。やっと、日本語とほぼ同じ調子で読める、と思いました。ここではじめて、「2,3のあやしい単語はあとまわしにしてもとりあえず最後まで読んでしまう」というスタイルの意義がわかったように思ったわけです。つまり、中級者以上には、意味のあることばだったのですね。

 しかし、英語学習者一般、特に普通の中学高校生にとって、実際にはこの言葉は、百害あって一利なしのマイナス効果しかもっていません。
 まず、このように子供がきかされると、大意をつかまねばならないのだから、「細かいことにとらわれ、こだわってはだめだ、分かる単語と分かる部分だけをつなげて、あとは想像で補完することを奨励されているのだ」と勘違いします。先に述べたように、「ごまかせない気性」の子は、やろうとしてもそのようなことはできないのでいいのですが、ルーズな子は、これさいわいとやりはじめないともかぎりません。そんなことを、百年つみかさねても「なんとなく」が「くっきり」などしては来ません。もともと、書き込まれている画素数が少ない画像をいくら細工してもいいものができないのと同様です。元がいい加減なモノなのに、どうやって脳はそれをプロセスして精度を上げることが出来るのでしょうか。
 
 ここにあるのは、「わたしたちは日本語をいちいち辞書など引かなくても身につけた。だから、英語だって、細かいことに拘泥せず、どっぷりと英語漬けにしてやれば、より、ネイティブっぽく、身につくはずだ、いや、その方が価値のある勉強法だ、」という、おろかな思いこみではないでしょうか。第二言語として、ある言葉を身につけて行くには、当然、母語の習得過程とは、まったく別の順序と方法と能率があるはずだと思います。会話主義、文法より場面主義、習うより慣れろ主義、多読主義、どれもわたしの実感では疑わしいと思います。
 言語学、脳科学を動員して、また、現場の教師とのフィードバックを通じて、正しい指導法が確立されるべきだと思いますが、文科省は、「小学校から英語を」とか、英語だけで授業をやる「特区」とか、思いつきレベルのことだけやっているのではありませんか。小学校英語など、英語関係者からも批判が多いのに。また、教科書改訂は、実にめまぐるしくおこなわれるのですが「変えるために変えている」「変わるために変わっている」という印象しか受けません。