学力差をどう考えるか

  なぜか「学力差」は「官」によって忌避される

 今回は、学力差というものを考えたいと思います。なかんずく、「おおやけ」の側に存在する「学力差」というもの自体に対する、禁忌感とでもいいたくなる何かです。 
 
 たとえば、いま、どこかの小学校では運動会の徒競走で一等になる子がいる一方で、ビリにならなければならない子がいるのは、「かわいそう」という理由で、等級付けをやめた、という話しをききます。それでは、徒競走にならないのではないか、という声がもっとあがってよいと思うのですが、なぜか、ひとつの行き方として認められ始めている。
 この頃はクレーマーが増えているので、「うちの子にビリというレッテルを貼り付けて、それが公平を旨とする学校のやることか」などと怒鳴り込んできかねない保護者の声をおそれているためかもしれませんが、この傾向の、根底にあるのは、「序列づけは悪い、なぜなら、それによって子供のこころがゆがむから」という、長いこと日本で使われてきた定型文でしょう。
 
 これが、学力にも持ち込まれます。まさか、通信簿を無等級にはできないから、相対評価でなく、絶対評価というのが導入されました。わたしが子育てをした、神奈川県でもある時からそうなりました。
 うたい文句はこうです。「相対評価で、ひとつのクラスの5から1までのわりふり数が決まっていたら、せっかくがんばって今学期はよくできた子がたくさんいたとして、その子たちの何人かには、5や4をやれず、涙をのんでもらうことになる、それでは、かわいそうだ。だいいち、がんばったのに評価されなかったら、せっかく出たやる気がなくなってしまうかもしれない。絶対評価は、みんなが出来ただけの評価をうけられる、ベターな制度である」と。
 わたしは、そのころもう塾をはじめていて、公立学校の低学力問題に気づいていましたので、「それでは、多くの子が『絶対的』に出来が悪い場合、その子たちに『ちゃんと』2や1をつけるのだろうか」と、思いました。
 案の定というか、5の大盤振る舞いになりました。正確には、もう54321は廃止され、◎◯△の三段階でしたので、◎のオンパレードです。国語なら、国語について、細かく観点がわかれた通知票で、ほとんどが◎です。おかしかったのは、子供たちがそれをまた、相対化して「◯◯ちゃんは◎34個だけど、あたしは36個」などといっていたことです。
 これでは、冒頭の徒競走が徒競走にならないのと同じで、通知票が通知票にならない。成績が成績にならない。まともな親だったら、このような場所は、「運動で体力をつくり、行事で思い出をつくる場、でも学力をつける場ではない」となるでしょう。

 事実、そういう言い方を当時、何度も耳にしました。
 
 わたしは、塾教師ですから、「差」を認識しなければ仕事ができません。悪いところを、正確かつ迅速にみつけ、それを治してあげて、月謝をいただく。これが、塾の仕事です。そこから見ると、ここでおこなわれていることは、病気を治そうというのに、血圧も尿検査も血液検査も「ゆるゆるの大甘」にしているようなものではないでしょうか。これでいったいどうやって「治療」ができるのでしょうか。