そもそも日本語がアブナイ

 そもそも日本語がアブナイ

 ときどきこんなお母さまがいます。
「うちの子、こんなにできないんなら、いっそアメリカ在住の姉のところに預けてしまおうかと思うんですけど」
 このところ日本も不景気が20年にもおよび、「アメリカへいって英会話がちょっとできるようになって、それがなんの保証に?」という雰囲気ですが、かつてはこの手の話はしょっちゅう耳にしました。

 この意見の前提にあるのは、アメリカである期間暮らせば「ウチの子のようなぐうたらでも、いくらなんでも英語を身につけるだろう。だって、アメリカに生まれれば、乞食だって英語をしゃべっている」という例の「暮らせばネイティブ論」です。

 ところで、わたしたち日本人は日本語のネイティブスピーカーのはずです。

 しかし、子供たちを教えていると、おやおや、わたしたちは本当に「誰でも」日本語の十全な使い手なのかなと、思います。

 たとえば、使役の文、
   I made him go there alone.
の、受け身は
   He was made to go there alone by me.
ですが、
   この「使役の受け身」の文を、あるとき念のため「訳して」と生徒にいうと、大変なことがおこりました。正確に「わたしはそこへひとりで行かせられた」と、訳せる子供はむしろめずらしい位だったのです。行かせた?行かれた?行かれる?などなど時制まであやしくなってきます。「行かせられた」と把握できていなければ、「使役の受け身」をならっても、それは単に「形の転換ゲーム」になってしまう。忘れるわけです。

 また、つぎのようなこともまことによくおこることの一つです。

  When I opened the door,he stood there.
 この訳が「ドアをあけたとき、彼がそこに立っていた」ではなく「彼がそこで立った」となるのです。私もびっくりして、「そこで立った」などと聞くと「それまで座っていた人が急に立ち上がったことになるわよ」というのですが、この誤りは、あるランクから下の多くの子供で一様に繰り返されることで、注意して「あっそうか」とすぐなおるようなものではありませんでした。
 そんなばかな、と思われるでしょう。でも、事実です。

  そこでようやく私も気づきました。
 使役の受け身の形を教えても教えても抜けてしまうのは、「使役」ということがらも「その受け身」ということがらも、コトバで表すという体験をまず日本語でつんでいないのではないか。誰だって、やりたくない掃除を「やらされる」ことは現実の経験としてはある。しかし、ことばを使ってその状況を表現したことはどれくらいあるのか。また、ドアを開けたら、誰かがそこに立っていた、あるいは座ってたということは日常的にざらにある。しかし「座った」と「座っていた」は、まったく別の情景を描写してしまうという「コトバの厳しさの修練」はまったく積んできていないのではないか。

 これもよくあることなのですが、知識としては現在完了進行形の受け身までばっちりなのに「時制」の演習問題がぼろぼろという女の子がいます。自分では英語は「好きで得意」なつもり。しかしながら時制の問題は「場面を具体的に思い浮かべる想像力」がないと意外にむずかしいものなのです。
 
When I came home, mother ( cook ) in the kitchen. ( )内を正しい形に

 の正答率は、思いの外低い。学校かどこかから帰ってみると、お母さんは台所で「さかんに料理しているところだった」と考えるのが状況から行って一番妥当だということがわからないらしい。余談ですが、この子は横浜の一流とされるあるミッション系の女子校の生徒でしたのでプログレスが教材だったのですが、マゼランの伝記を読んで「先生、南へ南へいってどうして凍えたんですか」と高校二年生のときわたしに聞いてきました。地球儀を出してきて航路をたどらせるとさすがに「ああ南極に近くなったんですね」と気がつきましたが。でも、この子など質問してくれるだけいいのです。わかっていないくせに、というか「お話の中身などどうでもいい」から「追及もしない」というのが平均のすがたですので。

 以上、たいしてむずかしいとも思われないことでも相当の困難が「日本語レベル」にすでにあることがおわかりいただけたでしょうか。

 そしていくらアメリカで暮らしたからと行って、その子が使い出す英語はその子が元来持っていた日本語の能力を越えることはもちろんありえない。日本語で時制や受け身に「うとい」子は何語だって「うとい」はずではないでしょうか。

 してみると、文部省の低年齢から英語をという志向がいかにばかばかしいものかがわかるでしょう。あれは「小さい頃から外国で暮らした子はなんなくその現地語が身に付く」だから「なるべく早くから学ばせれば学ばせるほど効率がよいのだ」と素朴に考えただけのこと。英語のプールにつっこんで英語漬けにしてしまったとしてもその本質的効果はあやしいのに、週にたった数時間英語に触れたからといって何が得られるのか。なによりその方法が研究されていないのですから。

 それよりなにより、わたしたちの子供がなんで「行かせられた」をウルトラCのように感じているのか。舌がもつれるようにしか言えなくなってしまったか。「座った」と「座っていた」が、コトバで区別できなくなったか。文章を自分の問題としていきいきととらえようとしなくなったか。考えねばならないでしょう。