「東大英単」あるいは「本当の単語力」とはなにか

 「東大英単」あるいは「本当の単語力」とは何か

 単語の意味がわからないから文章が読めない、それはそうなのですが、その単語対策としてわたしたちがやろうとすることには、さまざまな次元があるようです。

 某超ブランド私立校にいっているA君が、この春高校へ進みました。この学校は全員がそのままそのブランド大学に進学できる。というのがウリ、というか欠点でもある。つまり6年間遊んできたこの内部進学生たちは、ちゃんと受験して入ってきた一般の入学者とくらべて「学力が劣る」という定評が固定化している。学校も親も本人も正式には認めたくないのでしょうが、 でもやっぱりそう。

 しかし、受験がない、6年間を「受験にとらわれずに」「真の勉強」に当てられる、というもたしかにあるはずです。その利点は、実際にはどのように生かされているでしょうか。わたしが知り得た限りですが、受験がないかわりに TOEIC あるいは TOEIC BRIDGE のような試験を ときどき受けさせる。読み物として英字新聞の切り抜きのようなものを取り入れる。ということを、CROWNなどの普通の教科書に加えて、担任が「思いつくままに、ある程度」行っているという印象をうけます。
 さて、四月、そのまま中学から高校へと進学したA君は次のような単語のリストを受け取りました。「先生、こんなものが配られたんですけど」「わたしは単語テストが嫌いだって知ってるでしょ」「でも、なんかおぼえろって言うことらしいっす」「どれどれ」

  B4の紙に印刷された単語をそのままここに並べてみます。

  accommodate, adjacent, advocate, albeit, amend, anticipate, approximate, assess,
automate, bond, category, chapter, cite, classic, coherent, compatible,,,,,,

 よく見ると、先頭に Academic Word List  とあります。「はは~ん」わかりました。つまりこういうことのようですね。「君たちは受験がないわけだから、その受験の枠組みなどにとらわれずに、もう大学の英語の水準を目指して高1からやろうではないか、エリート校らしく」こうなのですね。B4の紙には「この水準」の115個の単語が書き並べられ、品詞と意味を記入せよ。とあります。提出期限までに表を完成させ(ペナルティを設ければ、生徒達はそれ自体は手分けしてでもやるでしょうけれど)あとは先生はどんな「面倒をみる」つもりなのでしょう。
 
  いえ、わたしがこんなことをいうのも、「東大英単」の話が今回はしたいからなのです。
 この本は東京大学教養学部英語部会が「すでに東大に合格したひと」のために編んだものです。
そのタイトルから「東大受験用の単語集」と誤解されぬよう、はじめに「これは受験参考書ではありません」と銘記されています。
 では、こちらの英単が取り上げている単語( 派生語をのぞくと、たった280語 )を並べてみます。

  absolute、absurd, accept, access, according to, account accumulate, accurate,
actual, adequate,,,,,,,,

「え、うそでしょ」というかたが相当数いらっしゃるのではないでしょうか。「これって、だいたいセンターレベルですよね。東大生ならセンターは満点でしょ、なんでこれが東大英単なの」

 わたしにはしかし編者の気持ちがよくわかります。「本書は東京大学教養学部に入学した画学生の実力や必要性のもとづいて独自に開発された学内用教科書を母体とし、、」とプロローグにありますが「学生の実力と必要性」がわたしにも痛切にわかるからです。

 学生の「実力」とは、たとえばこうです。「 unique  」という単語に「独特の」と「固有の」の二つの意味があるとは知っている。ところがある文脈でそのどちらを選んだら文意がとおり「意味をなす」文章になるかがわからない。というよりそもそも「文意」というものに関心がない可能性すらある。そして「必要性」とはもちろん、その「 unique  」の使われ様をコンテクストをふくめて典型的な用例で学ばせ、最低限の「ことばの教養」を身につけさせることでしょう。
 
 私の教室でも、文法の基本がだいたいすんで受験用の「解釈」をはじめると次のようなことが典型的におこってきます。たとえば 「 linguistic diversity  」を訳させるとしましょう。
  しばしば生徒達はそれを「言葉の相違点」などと訳します。
 
 「 As globalization continues, linguistic diversity will be lost. 」
 「グローバル化が進むと、言葉の相違点がなくなる」
 
 ここで、「先生、これってどういう意味なんですか」と聞いてくれればまだいい。いや、現実にはそれだけの質問を「たずねられる力のある子」はまずいません。そしてよしんば「言語の多様性」と訳せたとしても、その意味内容を知っているか、その意味内容に興味があるかどうかはまた別問題です。
 「言葉の相違点」であろうと「言語の多様性」であろうと、どのみち「自分には関係のないこと」かもしれない!

 したがって「誤訳」というより、「無責任訳」とわたしは呼んでいます。なぜなら注意されるといともかんたんに「あ、はい」などどいって、元の訳から「ひらり」と訂正し「どう、なにが変わったのか」など気にもしていない。わたしは「グローバル化が進むと、言葉の相違点がなくなる」ときくと、一瞬はその文の「意をくむ」方向に自動的に頭が回転していこうとするので、一日、生徒達のものすごい「訳文」につきあっていると、しまいには「酔っぱらて」しまいます。

 この子達はべつにしらけているわけでも、ニヒルなわけでもありません。ただひたすら「幼稚で透明」。そして、なぜか上昇志向だけは一人前に植え付けられてある。理系なら医者か薬剤師、文系なら国際関係と、あっけらかんとして志望を告げるのです。
 
 まとめましょう。
 単語力について、まず、第一の例のブランド校の先生のやりかたはあまりにも素朴、というかいいかげんです。受験がないことをいいことに、できっこないことをやるふりをしている。単語力をつける、単語力が必要だ、というときに、実際わたしたちがどのように単語を身につけてくかをふりかえってみればいい。
 よくお母様で「うちの子は単語をおぼえていないので点がとれません。おぼえられなかったら十回でも二十回でも書けばいいっていうんですけどねえ」とおっしゃる方がいます。いったいそんな風にして単語をおぼえていった人間がこの世に存在するのでしょうか。中1の春に、pen, ball, door などを一行ずつ書かせるのは、あれは「字の練習」をしているのです。contribute を十回書く人間はいません。
 私は単語を十回かかせるならトイレ掃除を十回やらせようと思います。トイレ掃除を十回やらされたら、自分はトイレ掃除をするために生まれてきたのか、と問うでしょう。そしたらこつこつ辞書をひいて、忘れて、また出てきて、知っている意味では通じなくて、また辞書を引き直して、ということも「観念してやる」のが「生きていくこと」だとわかる。単語は「文章の海に溺れつつしか学べない」とわたしは実感しています。あらかじめ「十全な単語力を装備してから」海に出て行くことはできないのです。そんな都合のよい「安心」はあり得ないのです。ブランド校の先生は高一のはじめにこのリストを渡しました。へんですねえ。まさかと思いますが、文章を与えずしてこれだけの単語をおぼえさせようとしたのでしょうか。

 「東大英単」の編者たちは「東大に合格してくる子たちすら」どういう状態であるかを把握していました。そして「日本のリーダーともなる子達がこんなことになっている、何とかしないと大変だ」と責任を感じ、方法を考えたのです。子供たちにとってほんとうに難しいのは字面が難しい単語ではない。専門用語なら逆に簡単だ。その分野にいけばその手の名詞、形容詞、動詞はすぐ身につく。そうではなくて、たとえば counterpart  という単語が使われるような「中程度の一般教養」を要求されるような文章を「経験」していないということを。