「高校の授業は英語で」について

◆ 「高校の英語の授業は英語でおこなう」について

2013年からこうなることを皆さんご存じでしょうか。

このことに危惧をもたれた東大の英語教育者である菅原克也氏は「英語と日本語のあいだ」(講談社現代新書)という本を最近著されました。

わたしが下手な要約をするより一読していただくのが一番ですが、冒頭の一節をご紹介します。

—– コミュニケーション英語の必要性が声高に叫ばれている。英語を通じて意思を疎通できる能力(英語によるコミュニケーション能力)の不足が憂慮され、実践的なコミュニケーション能力を養うための英語学習の方法が、さまざまに模索されている。そもそも、平成二十五年(二〇十三)年度から施行される高等学校の新指導要領では、科目名じたいが、「コミュニケーション英語」に変更されようとしている。これから高校生が学ぶことになるのは、単なる「英語」ではなく、「コミュニケーション英語」なのである。—–

そして文科省が新指導要領で打ち出した高等学校の英語の「授業は英語で行う」という方針に疑義を呈し、高等学校段階までの学校英語では、文法の学習と「読む」力の涵養に力を注ぐべきであると主張します。

ところで、考えてみるに「小学校から英語」にしろ「高校の授業はすべて英語で」にしろどちらのにも共通しているのは「英語漬け」にすれば、「自然に考えなくても英語が口から出てくるようになる」という例の「ネイティブ幻想」ではないでしょうか。泳げなくても海にまずつっこんでしまえば必死にもがくうちに嫌でも泳いでいる。外国出身のお相撲さんが「日本語がうまい」のはたしかにこの「方式」によるのでしょう。「聞き流すだけでよい」式のコマーシャルが盛んに流されるのもこの「幻想」に基づいています。

しかし、授業で週数回、英語で授業されるのは「お相撲さん」の状況とはまったく別なのがひとつ。
そしてお相撲さんの日本語は「ごっつあんです」のたぐいで事足りるということがもうひとつ。

私たちは日本という国に生まれ落ちて、自然に無意識に「日本語のネイティブスピーカーになれた」。だから「そのように」英語も身につけられたらどんなによいだろうとどこかの誰かが考え(いや、みんな漠然とはそう考える)、現場の意見も専門家の意見もある程度は聞いてみるのでしょうが、おそらく財界からの「日本人の英語はこのグローバル化時代の使い物にならん」という圧倒的な圧力に押され「文法よりオーラルコミュニケイション」「なるべく低学年から英語に親しませる」「高校になったら授業で英語以外は使わせない」という流れを一貫して日本の教育行政担当者は作ってきました。

しかし英語にも(いやすべての言語にには)ふたつのレベルがあります。タクシーに乗れる、買い物ができる、といった日常の用が足せるレベル。すくなくとも新聞の論説文が読める以上の「知的レベル」。このふたつを一緒くたにしてはいないでしょうか。

実は「帰国子女の英語落ちこぼれ」を時にお預かりするのですが、英語で兄弟げんかをする、英語で寝言をいう、というお子さんが帰国して、たいていまずみなさん英検を受けるのですね。そして二級に受からない子はまずいません。そこで親御さんはこの「英語メリット」を維持したいと言うことで「帰国子女」のクラスにいれ、さらに「英検準一級」「英検一級」と目指させようとする。
ところがその子のもともとの「基底となる言語能力」(日本語であるか英語であるかを問わず)が低いと、いくら「英語で喧嘩」できても「それ以上」にはならないのです。そのうえ能力が低い子は肝心の日本語にすら問題をかかえている。英検は二級どまり、センター英語程度ならこなせてもそれ以上は無理、しだいに自信をうしなって、、、。「帰国子女必ずしもエリートならず」を目の当たりにし、しばしば暗然とします。

でも考えてみれば、日本人だって「新聞が読める」といったところでスポーツ欄と三面記事しか「読めない」ひとは多い。このブログ空間にどれだけの「非知的言語」(どこそこへ行って、なになにを食べてきましたあ)が氾濫しているか、をみればよくわかりますよね。わたしたちは日本人だから全員が日本語のネイティブスピーカーですが、「一生三面記事どまりの人間」と「そうでない、それでは困る人間」がいることを忘れてはいけないでしょう。財界はそのどちらが欲しいのでしょう。文科省はそのどちらの使い手をイメージし、そのどちらを目指しているのでしょうか。

おそらく、英語圏で育って英語の使い手になって帰国し、生涯そのバイリンガル力を維持できる人間とは「どこかでこのふたつの言語の違いこそを瞬時に演算する知力」をそなえた文字通りの「エリート」なのです。
英語がぺらぺらという現象面にたいする「あこがれ」だけで英語教育が右往左往しているこの現実に、もっともっと現場は声をあげなければいけないし、塾の意見も現場の一員としてそのなかに多少加えていただければうれしいのですが。